Interview
阿部未来 副指揮者

2009年4月より神奈川フィルの副指揮者制度が導入され、これまで2名の若き指揮者が神奈川フィルから羽ばたいたことになる。この4月より新たに神奈川フィルの副指揮者として加わることとなった阿部未来。新たな新時代を築きあげる若き逸材に大きな期待が高まる。
Sonorite #308 取材・文/田賀浩一朗

秋田県雄勝郡羽後町という町をご存知だろうか?秋田県の南部、山形県にほど近い東北でも指折りの豪雪地帯で、この4月から副指揮者に就任した阿部未来が生まれた場所でもある。

小さい頃は体が弱かったせいで、精神を鍛える剣道の練習に汗を流し、ピアノの先生である母親から毎日のように厳しいレッスンを受け、『近所の診療所を継ぐ』と豪語して将来の目標を“医者”と語っていた若者が、まさか副指揮者として音楽家の階段を上っているとは、本人もその当時は想像しなかっただろう。

『一回始めるとやめられない、集中してやりぬくタイプです』。阿部はそんな風に自己分析をしている。『これまでピアノを続けてきて、この先やめたらどうなるかという不安、自分がやらなくなったら咎められるような気がしてやめられなかった』。母親から厳しいレッスンを受けていたピアノを、これまで続けてこられた理由をこう話す。

漠然と医者になることを目標としていた中、2つの出会いが、阿部の指揮者への“憧れ”から“目標”へと変化させた。『トロンボーンをやりたくて、中学・高校と吹奏楽部に入部したんです。高校2年のときに金賞をとって、その時演奏したのがドビュッシーの《海》だった。これまで表現してきたピアノの世界では表せない壮大な音楽、この偉大な管弦楽作品に衝撃を受けました』。そしてもう一つは、そのドビュッシーを選曲した音楽の先生との出逢いだ。『ピアノだけではなく、チェロやクラリネットなども弾ける。クラシックだけでなくジャズやポピュラーもよく知っている。そんな先生に、オペラを見せてもらって一気に世界が広がったんです』

4歳からピアノをはじめ、中学からはごく普通の吹奏楽少年。『ピアノが弾けるんだから、ピアノをやったら?』という地元の先生の言葉を鵜呑みにして、高校2年の冬東京音楽大学のピアノ科を受ける決心をした。『集中してやりぬくタイプ』が、ここでも本領発揮され、その後1年は死にものぐるいで『同じ曲を1年やり続けました』。希望していた大学に見事合格し、神奈川フィルの常任指揮者となった川瀬賢太郎と出会うこととなる。

『ソルフェージュの組分けテストの前に、トイレで初めて見かけました(笑)。川瀬さんは、在学中から他の楽器の人たちとの交友関係も広く、とても社交的でした』。ピアノで入学した阿部は、川瀬賢太郎と同学年となり、選科のレッスンを受けながら、指揮者への道を目指す。卒業後は大学院科目履修生として指揮科へ転科。

そんな大学生活の中で指揮のレッスンはとくに厳しかった。レッスンそのものの厳しさに加え、メンタルトレーニングや音楽的感性の磨き方にも多くの時間を費やした。最近もタレントの武井壮の言葉が身にしみているという。『【自分の頭のイメージと筋肉の動きを連動させるのがいい】』。目から鱗が落ちるようだった。『自分が思っている以上に体の動きができていない。あとで自分を見直したとき、そのギャップに驚いてかなり悩みました』

『もっと本格的に指揮をやりたかった』。さらなる高みを目標に単身ドイツへ。文化や言葉、人との付き合い方に戸惑いを感じながらも、着実に目標に向かって一歩一歩進んでいった。『たくさんの経験ができ、やるべきことをこなしていた毎日でしたが、最後の1年は、共同生活をしていた自分にとって一番の思い出です』。外国だからこそ共有できること、人生の中で本当の友人と呼べる人たちと出会い、音楽はもちろん、食生活や遊び、語学など幅広い分野での生活がすべて自身にとって財産になったという。そんなたくさんの財産を神奈川フィルに還元し、副指揮者だからこそできる活動をやってみたいと意気込む。『神奈川フィルを大切に見守ってくださっているお客様のため、オーケストラにとってもプラスに働くようにして活動していきたいです』。名は体をあらわすとはまさにこのこと、阿部の『未来』は果てしなく広がっている。

1985 年秋田県生まれ。2007 年東京音楽大学音楽学部音楽学科器楽専攻(ピアノ)卒業。2009 年東京音楽大学大学院科目等履修生作曲・指揮専攻(指揮)修了。指揮を広上淳一、船橋洋介、三河正典、時任康文の各氏に師事。2011 年、国際ロータリー財団国際親善奨学生としてドイツ国立ドレスデン“カール・マリア・フォン・ウェーバー”音楽大学指揮科修士課程に留学。2015年4月より神奈川フィルハーモニー管弦楽団副指揮者。